今こそ松下氏に学ぶ

現在、シャープの身売り、東芝の不正会計等、日本の企業は中国、韓国の後塵を拝する、危機的な様相をていしています。偉大な経営者と言われた松下幸之助氏が存命されていたらどのような感想を述べられたのか、私たちは今繁栄しながらも、様々な問題を内蔵する日本において改めて松下幸之助氏に教えを請いたいと思う。没後28年、松下氏の折に触れて発せられた言葉を書物、資料を読みかえすと改めて時代を超えて普遍性を持つ思想になるほどと感じ入るところが少なからずあります。本ホームページの当初の開設の趣旨とはいささか外れるような感じもありますが、本稿にアクセスして頂く諸氏が意外と多いことに力を得て、氏の存命中に発せられた言葉をご紹介し、皆さまの心に触れるところがあればさいわいです。

 

訪問される皆さまへ

ご来訪ありがとうございます。  現在 NO.28「松下氏の失敗」まで追加更新中です。

 

 

 

①利益の尊さ

利益というものは尊いものである。利と益どちらの字をみても、悪い意味は少しも含まれていない。利益は自分を潤すだけでなく、人を潤し、世を潤す。世の中は利益を求めて動いていると言って過言でない。その中には精神的な利益も含まれている。商業や事業をやって利益を上げないのは罪悪である。そういう事業なり商売は結局長い間にはだめになる。それは自分をダメにするだけでなく、社会にも迷惑をかけることにもつながる。正しい意味の利益とは必ず社会に還元される性質をもっている。利益を主張することはけっしてやましいことではないのである。

 

 

②値切られてもまけない理由

私が、事業を始めたときは小さな工場であった。昼作った品物を夜に売り歩くようなこともしていた。自分で作って自分で売りに行ったのである。そのころ行った先で、よく品物を値切られた。相手は年上の商売の駆け引きに長けた人ばかりで、値切り方もうまい。私は小さな町工場で、相手は大きな問屋で力関係からいっても先方が上だった。

それでも、私は頑張って値引きに応じなかった。それには訳がある。問屋で値切られたとき、ふと私の目に浮かぶのはさっきまで一緒に働いてくれていた若い従業員達の顔である。彼らは早朝から夜遅くまで頑張って働いてくれている。この品物は自分一人で作ったものではない。みんなと協力して作り上げた汗の結晶である。それをたとえ、わずかでも独断で値引くのは皆に対して申し訳ない気持ちになるのである。このようなことを先方に申し上げると先方もわかってくれたて、快く言い値で買ってくれたものです。私はそのような姿で商売をしてきた。

 

 

③仕事は勝負

仕事というものは勝負である。一刻一瞬が勝負であるが、一般の仕事であればチョットした怠りや失敗があったとしても別に命を失うようなことはないだろう。それでも一日は終わり、また明日ということになる。今日は昨日の繰り返し、だから気が緩む。惰性に流された仕事がダラダラ続く。平穏無事な時はこれで過ごせるが、これではいざという時に役に立たない。仕事を勝負と心得る人とそうでない人の差がそういう時に表れるものだ。

 

 

④汗をかかない仕事

ひたいに汗して働くことは尊く美しい。しかし汗の量が、仕事の値打ちを決めているわけではない。時代は汗をかかないで、涼しい姿で仕事をするほうに向いている。怠けることと仕事の能率を工夫して楽することとは根本的にちがうこと理解せねばならない。そのために知恵を働かせる。そこから社会の繁栄が生まれてくるのだ。

 

 

⑤販売の秘訣

ものづくりには新しい発明や発見が考えられるが、ことモノを売る、販売ということに関してはとりわけ妙案といったものは、まずないといって良いと思う。セールスの名人といった人は確かに存在するが、突き詰めていくと、いかにすればお客様に満足していただけるかにつきるのだろう。たいがいの人は買い付けの店というものをもっていると思うが、どうしてその店に足が向くかというと、取り立てて理屈はないのだが、要するにその店が自分に満足を与えてくれる、という感じが、好みの店を決めさせているのだと思う。そこに販売を成功させる秘密があるのではなかろうか。

 

 

⑥中小企業の生きる道

中小企業は間口を広げるより奥行を深くした方が良いのではなかろうか。今、日本の大企業は間口を広くしている。そうしなければ良くないという考えもある。例えばひとつの事業がうまくいかない場合でも、第二の事業はうまくいく。こうすれば本業が不振でもそれをカバーできるので、会社の経営の強化につながるという考え方だ。中小企業でもそういう傾向が見られる。しかし世界競争が激しくなってきて、あれもやり、これもやりしていると、資金も足りなくなるし、頭も散漫になってくる。技術もばらばらになる。むしろ間口を狭くして奥深くする。言い換えると専門細分化してある製品ではいかなる大企業も太刀打ちできないような分野を構築するぐらいの企業にもっていかなければならないのではなかろうか。

 

 

⑦松下電器は人をつくる

得意先から「松下電器は何を作る会社か」と聞かれたら、「松下電器は人を作る会社でございます。合わせて電気器具も作っています」と答えよ。とは松下氏がよく社員に教える社内では有名な言葉である。初めて松下氏がこれを口にしたのは、まだ昭和のはじめの頃で、当時から松下氏は「事業は人にあり、人をまず養成しなければならない。従業員が人間として成長しない事業は成功するものではない。電気器具そのものを作るということは極めて大事な使命であるが、それをするにはそれに先んじて人を養成しなければならない」といつも感じていた。それである時ふと口からそういう言葉が出たというのである。

(※松下の社員は実際にはまずこのような返事を得意先にする人間はないだろうと思う。実際にこのような答えを返したら、得意先の人はどう反応するだろうか?「ああそれで君のような人間をたくさん製造してるんやなア」と冷やかされるのがおちであることは社員全部が知っている。しかし松下氏はそれをあえて承知の上で、社員ひとりひとりの向上心を高める意識を心底に刻み込ます為の発言で使っている。「松下電器に入ったならば人間として成長しなければならないんだ」この言葉はその話を聞いた社員の心のの奥深く刻み込まれていく。松下氏はてらいもなくこういう言葉が使える。まさに人使いの名人ならではの面目躍如の逸話だ)。

 

 

⑧人間関係

会社には、たくさん人がいますから、ウマが合う人もおれば、ウマの合わない人もいます。上司と仰ぐ人も必ずしも全部がいい人ではありません。ああいう上司の下で働くのはいさぎよしとしない、ということも起こってくるだろうと思います。しかし、どこの職場に行っても、やはり上司に気に入らない面もあれば、また気に入るところも沢山ある。それが世間一般の間柄だとおもうのです。

 

 

⑨この世は安心か?

私はこの世は、絶対に安心であると境地はまずありえないだろうと思います。人はみな全部が全部、ある種の脅威、心配というものに直面しつつ、日々の生活をしているものだと思います。私どもの会社にしても、「あの会社は大丈夫だ。相当成績も上げ、ある程度勉強もしているから、あの会社はつぶれないだろう」という風に見て下さる方もおられますが、私どもは決してそんな考えをもっておりません。私どもは日々これ戦いであり競争であるという考えに立ち、一歩誤れば、明日のわが社は無くなるだろう。というようなある種の脅威にさらされて仕事をしているのです。これが偽らざる姿です。皆さんも皆さんなりに、そういう心配というか、脅威を身に感じられているだろうと思います。もし感じていない人があればそれは特に偉い人か、いわゆる無神経と呼ばれる人ではないかと思うのです。普通であれば、皆心配を持っている。しかし心配しつつもなお自分を励ましてその心配事に立ち向かわしめる。というような努力を払ってそしてようやく今日をたもっておられるのが皆さんの姿ではなくてはならないと思います。

 

 

 

 

⑩商売は真剣勝負

商売は真剣勝負である。真剣勝負では、首をはねたり首をはねられたりしているうちについには勝つというようなことはありえない。それと同じで商売はときによって損もし、得もするがそれを繰り返しているうちにやがて成功するものだ、などと考えるのは根本的に間違っている。

熱心にやるからには、失敗なしに成功しなければならない。うまくいかないのは、環境でも、時勢でも、運でもなんでもない。その経営に当をえてないからだと考えなければならない。真の経営者は、不景気に際して、かえって進展の基礎を固めるものである。まず世間的な信念のない考え方を改めることが大事であろう。

 

 

 

⑪中小企業は社会の基盤

私は中小企業というものは、日本経済の基盤であり、根幹だと思う。それが健在であってこそ、大企業も持ち味を生かすことができるし、経済全体の発展も可能になる。そして中小企業は単に経済においてだけでなく、いわば、社会生活の基盤になるべきものだと思う。つまり、いろいろの適性をもった人が、それぞれに色とりどりに花を咲かす。そういった社会の姿が望ましいのであり、そこに人間生活の喜びというようなものがあるのではないだろうか。その意味において、たくさんの中小企業が、それぞれに所を得て、盛んな活動をしているというような社会の姿が一番理想的なのではないかと思う。

 

 

 

⑫日本の工場は美しい

「日本の工場は完全で、そして美しい。私はそれ以上に言うことを知らない。松下の工場を見てそれを感じた」

これは松下幸之助氏自身の言葉ではない。昭和34年(1959年)10月、日本でガット総会が開かれたとき、その一行は松下の工場を見学したが、その後で一行の代表者は、そのように驚きを語ったのである。

一行が見学したのはテレビの茨木工場と電子工業の高槻工場だった。松下の各工場の近代的なメカニズムはかねて定評のあるところであるが、機能的なうつくしさが、ここではいかんなく生かされている。その明るい色調と言い設計と言い、工場というもののイメージを変えてしまったほどである。そしてそこでは若者たちがきびきびと働いていた。そこには、労働というものに付きまとう過去の重苦しい印象はまったくないのである。

各国からあつまったガットの代表者たちはそうした、よく整備された近代的なシステムに一斉に感嘆の声をあげた。まさにそこに躍進する日本の象徴を見る思いをしたことだろう。それは代表者達の日本見学の日程の中でも最も印象的な一日だった。

これらの工場は、もちろん企業の総帥であった松下幸之助氏の人となり、その考えを反映しているのである。その意味では工場そのものがその志の展開であり、無言のうちに松下氏の思想を雄弁に代表しているのである。

※(GATT)関税と貿易に関する一般協定のことブレトン・ウッズ協定により1947年に調印された国際協定。

 

 

 

⑬お金の借り方

「私は、卑屈な金の借り方はすべきではないと考えている。また援助を乞うような金の借り方をしたこともない。こちらも商売なら、同様に銀行も商売である。お互いが喜んで商売をする姿において、金額が増大していくことが好ましく、また安全である。反対に、お互いが心配しあうような姿において貸し借りをするというようなことはどこか間違いを生むものだというような感じがある。これは対お得意さんとの関係もそうだし、あらゆる貸し借りについて言えることである。

こんなことを言うと、少しばかり成功して金ができたから言えることで、実際はそうはいかないぞ、という人もあるかもしれない。確かにそうで、そんな態度で金は借りられない。多くのひとはそう思っている。しかし卑屈な金は借りるべきでないという私の基本方針に変わりはない。

 

 

 

 

⑭松下氏の戦争感

「昔の戦争はどちらかと言うと権力的な争いが多かったように思う。覇権の争奪である。領土のの拡張もその表れである。ところが最近の戦争は、単なる領土拡張や権力、勢力をはかって行われていると言うよりは、思想のための戦争、という様相を呈していることが多い。異なった政治、経済の体制をとっている国と国の対立が、戦争まで発展した形である。これは思想戦と呼んでもいい性質のものと思うが、そこにはこれまでの戦争と違って、ひとつの大きな問題がある。というのは思想戦の場合戦う双方の罪悪感というか、正義感というか、つまり何が正しいのかという基準が同一でない。

現に自由主義、資本主義を基盤とする国と、いわゆる社会主義、共産主義を標榜する国とでは、そうしたものの考え方の違いというものがある。一方では白とされているものが、他方では黒とされている場合があり、その対立は深刻で解決のめどが立たない。このような対立はどのような方法で解決すればいいのだろうか。その解決はお互い他のいいところを認めるという寛容の精神で共存を図る以外はないと思う。ひとつの思想は一面の真理を表すが、それですべて真理をおおえるわけではない以上お互い相手のよいところを認めて共存を図るしか道はないだろうと思う。

 

 

 

 

⑮やる気(意欲)

「同じことをやるのでも、意欲があるのとないのでは、まるでちがったものになってしまう。例えばお蕎麦屋さんが、いっぱいのそばをつくるにしてもそうである。本当にお客さんに喜んでもらおうとする意欲が、おいしいそばを作り上げる。

もちろん、それは意欲といったところで単なる精神論では駄目だ。日ごろからおいしいと評判のよその蕎麦屋さんに行って、食べてそれとなく聞いたりして研究するというような努力が伴なっていなければならない。そういう行動を起こすこと、これも当然意欲のなせるわざだ。ひるがえってあなた自身はどうなのか?どの道でもことの成否はその人の意欲のあるなしに係っている。

 

 

⑯武士道精神

昔の武士は、武士たるをもって尊しとされていました。従って強いだけでは武士ではなく、武士は人間として最高でなくてはならない。学問もやらなくてはならないし、人情もゆたかでなければならない。また、義をみては大いに勇をふるって行うということでなくてはならない。しかも戦って強くなければならない、ということだったでしょう。そういうものを兼ね備えているところに武士道精神というものがあったと思いますし、そこにまた武士道精神の尊ばれるゆえんがあったと思うのです。

武士が武力に強いからといって、人を虐げ、人を困らすようなことでは、それは武士道でもなんでもないわけです。昔の人々は町人といえど、武士道精神がこのようなものだと理解し、だからこそれに敬意を払っていたわけです。時々武士がよくないことをすれば、「武士の風上にも置けない奴だ」と言って非難されたことは皆さんもよくご存じでしょう。今や武士道精神も歴史の彼方の遠い存在になりましたが、現代の私達も人間として産業人として社会生活を送り、仕事を進める上で、このような姿に感じるところが大いにあるのではないでしょうか。

 

 

⑰公私混同しない経理

私が9歳(明治36年)で大阪に出たときの奉公先は船場の火鉢屋であった。「船場」といえば今も大阪の商売の中心であり商人の町である。火鉢屋が閉店してからは自転車屋の丁稚に変わったが、その店もやはり船場にあった。その当時にはあまり深く考えもせず思いも至らなかったが、二十歳を過ぎて結婚し大阪電燈(関西電力の前身)を退職して独立して店を持ったとき痛感し、非常に役立ったことがある。それは店の経営をし始めた時の銭勘定いわゆる経理のことである。

私が奉公した時の船場の店はほとんどが個人経営であった。つまり現代の会社組織をとるような時代ではなかった。しかし火鉢屋さんであれ自転車屋さんであれ、奥内(経営者個人)と店の銭勘定はきちんと分けていた。奥内(経営者個人)は主人一家の生活費にとどめ、店はいわば会社として公明正大な帳簿処理をする。簡単にいえば公私のけじめが明確にされていた。店の経理などは「始末」と呼んでいたようだ。「始末が悪い」はここからの語源である。

そういう銭勘定の「始末」について、船場の人たちはとりわけ厳しかったようだ。大阪商人はがめついとかそろばん勘定にさといとよく言われるが、公私のけじめをしっかりとつけていた姿勢は称賛されるべきと思う。

よく松下の経理システムは完璧であると、おほめの言葉を頂戴することがある。なんのことはない、はるかな昔丁稚奉公の時に私自身が体験し、学んだことが基礎となりそれを時代に合わせて少し改良しただけのことである。

 

 

 

⑱薄利多売

薄利多売は社会性のない方法と思う。薄利多売は結果的に働く者の低賃金につながる方策であり、それを採用する企業は一時的には利益をあげるかも知れないが、結果的に大勢の人を貧困にし、業界を混乱させ、国を貧しくさせる。我々は断固としてこの誤りを是正する働きをしたい

厚利にして多売することが、高賃金に繋がることになれば、我が国もアメリカの繁栄と肩を並べる社会を実現するだろう。薄利多売はひとりを富ませて他のすべてを倒すものである。我々の方策である厚利多売から生まれるのは豊かな消費であり、豊かな生産であり、富める社会の実現である。

 

 

 

⑲幸之助氏の創業

松下氏が独立したのは(大正6年)、彼自身のあの有名な二股ソケットの考案がきっかけであった。二股ソケットは幸之助氏の独自の製品のように喧伝されているが、すでに二股ソケットは世の中に存在していた。それを改良し安価に製造できることにより、松下氏は独立して、それを生産販売する決意をしたのである。その製品は売れるのではないかと共鳴した大阪電燈の同僚二人を引き抜き、大阪市生野区猪飼野で仕事を始めた。また妻であるむねの夫人の弟である井植歳男氏(当時14歳)を故郷兵庫県淡路島より呼び寄せ戦力とした。井植歳男氏は言わずと知れた三洋電機の創業者である。

当稿⑩項「商売は真剣勝負」で松下氏は商売の失敗を厳にいましめているが、彼の自信作であったはずの製品は当初まったくといっていいほど売れなかったのである。井植歳男氏の回想によると彼が松下氏のもとに来て、働きはじめた頃、すでに仕事の先行きには暗雲が立ち込めていた。幸之助氏と前述の大阪電燈からついてきた同僚ふたりとが、深刻に将来を話し合っていたのを聞くともなく聞いていたという。結局戦力のふたりは半年を経ず去ることになったそうである。当時の幸之助氏は仕事に精をだすかたわら、資金繰りに窮し、金策に走り回っていたそうだ。

 

 

 

⑳幸之助氏の強運

独立開業のはじめは、描いていた構想とは程遠い有様であった。しかし松下氏には思いがけない幸運の話しが舞い込んだのである。それはかねて面識のある大手電機商店の主人からの話である。「扇風機の碍盤を作ってほしい」

「松下のソケットは結構魅力があるが、いまひとつ実用性に欠けるように思う。それが売り上げが伸びない原因だ、しかし、ソケットの基盤はかなりしっかりしているようだ。取引先の大手電気器具メーカーから扇風機の碍盤に採用したいのでぜひ作ってもらいたい」と打診があったというのだ。

「碍盤」それは扇風機の速度を切り替える絶縁盤のことで、当時は陶器で作られているのが主流であった。しかし割れやすい。ベークライト(フェノールとホルムアルデヒトの合成物)でつくられたソケットは難燃性と耐久性にすぐれていた。その作り方に関しては幸之助は氏は非常に苦労して研究し、それをつくっているメーカーの窓から覗き込んでまでして見学し(盗み見?)して怒られた。というようなことなども回想している。その松下製の樹脂の難燃性と耐久性・強度に目をつけた扇風機メーカーの技術者が取引先を通じて松下氏に打診したのである。

最初の注文は1,000個、松下氏はその数の多さに驚いたという。注文されてもせいぜい100個程度と思っていたようだ。彼は全力をつくして1,000個をその年の11月末に納入し、品質も問題なくクリアした。その製品の品質に納得したメーカーはさらに、2,000個、3,000個と追加注文を出してきた。まさに松下氏の工場はフル操業、大正6年12月末、経理担当の妻むねの氏はすべての借金が返済できたことにむねのつかえが降りる思いをしたことだろう。

幸之助氏はそれをきっかけにさらに研究を重ね当初売れなかったソケットの改良にまい進した。その結果、改良したソケットも売れるようになり大正期の販売ヒット商品と呼ばれるまでに成長した。

 人の努力というものは、当人の期待していた結果では出なくても、まさに別の形で評価され、花開く場合があり得るということを幸之助氏は如実に証明している。

 

 

 

21・品切れが誠意のみせどころ

「お客さんが求めている品物が店に無いとき、どうもすみません、あいにく切らせております。だけでお客さんに帰ってもらうのは如何にも愛想がない。「今切らせておりますが、すぐ問屋さんに注文して明日には必ず取り寄せます」といえばお客さんも多少なりとも得心するだろう。さらに一歩踏み込んで、うちにはありませんが、どこそこの店にはあるかもしれません。といって紹介する。或いは電話をかけて尋ねてみる。お客さんは親切な店だな、という感じを持つ。品物を切らせたことが、かえって店のよい印象を強めることになる。その利点はひとつの品物を売るよりずっと大きい」

最も、そのためには、同業者との間に常日頃友好な関係を結んでおかなければならない、と松下氏は付け加えるのである。お客様と良い人間関係を取り付けるのと、同業者間で友好関係を結んでおくことは、決して無縁ではない。

 

 

 

 

22・ダム経営とは

ダムというのは、古来から、文明の発生地で、作られてきた。河川の流れをせき止め、貯水し、季節や天候に左右されることなく、人間の利便に供してきた。そのダムのようなものを経営のあらゆる場面において、想定し余裕、ゆとりを持たせるという考え方である。設備、資金、人員、在庫、企業が必要とするさまざまな資源を、絶えず変化し、思いもよらぬ企業の打撃を受ける事態に遭遇しても、余裕をもって対処してゆこうといういうものである。これは個人の生活にも当てはまるのではないだろうか。我々は普段、仕事や家族、健康面、想定外の出来事に備えるという意識はあまりなく、まさかそんなことがあるわけないと楽天的に考えがちな人も多くみうけられるが、ある程度考えて備えておく必要があるのではないだろうか。

 

 

 

23・仕事は無限にある

この頃は不景気で、仕事がないというけれども今後100年の日本を考えてみると、その間に日本の建物という建物はほとんど作り替えなければならないだろう。橋や、道路、その他構築物も同様だ。そういうことを見ただけでも、仕事は無限、山ほどあると思う。ところがそういう見方をせずに自ら仕事をないようにし、不景気にしているのが、現在の日本の実情ではないだろうか。これはものの見方を変えないといけない。発想の転換を図らねばならない。我が国にはやるべき仕事がやまほどある。人手も足りないしこの先将来もそうである。我が国には無限に仕事がある。

 

 

 

24・衆知を集める

会社の経営はやはり衆知によらなければいけません。社長が如何に鋭い、卓抜な手腕、力量を持っていたとしても、多くの人の意見を聞かずして、自分一人だけの裁断でことを決することは、会社の経営を過つもとになります。世間一般では非常に優れたひとりの人が、ワンマン経営をすれば、ことがうまく行くということをよく言いますが、社長ひとりで何事も遂行することはできませんし、たとえできたとしても、それは失敗に終わる場合が多いのです。やはり全員の総意によって如何になすべきかを考えねばならないと思うのです。

 

 

 

25・使い捨てを考える

高度成長時代に、「使い捨て」「消費は美徳」という考えが浸透しました。私は時々注射をうちますけれども、見ていると一度使った注射器をすぐ捨てています。「もったいないじゃないか」と言ったら、「消毒するガス代、水道代、洗う手間を考えると捨てるほうが安上がりだ」というのです。なるほど生産の経済性というものがそこまで上がっているのかと思い知らせられました。

使い捨てというと我々の世代は大変もったいない思いをしますが、実は経済の法則にかなっているのです。もったいないという考えは尊い、それはそれで尊重しなくてはならないと思います。しかし一方経済性という合理性も重んじる必要もあるかと考えるのです。

 

 

26・熱海会談 

(全国販売店代理店社長懇談会)

昭和39年(1964年)日本で初めて開催された東京オリンピック。戦後19年自信に満ちた高度成長の日本経済も景気の過熱の反動があらわれ、産業界は景気の後退、過剰設備で苦しむことになった。家電業界も例外ではなく、松下電器の販売会社、代理店も一斉に経営が悪化した。事態を深刻に受け止めた松下電器は緊急に全国の販売店、代理店に招集をかけ静岡県熱海のホテルに会場を設営した。大阪ではなかったのは多分日本の真ん中で全国の販売店、代理店の足の平等を考慮した結果だろう。およそ170人程の所長・社長など代表者が参加し、当初会議は2日間の日程であった。

会議は冒頭から荒れた。会場からは次々に手があがり、「もうからん」「赤字続きだ」「大損害だ」「どうしてくれるんだ」との声が続き、ほとんど松下電器に対する批判と苦情の発言であった。

松下側も、言われっぱなし叩かれっぱなしではなかった。販売店、代理店の中にも、少ないが、利益を上げているところもあることを指摘し、赤字会社の経営の方法、姿勢を問題視して鋭く反論した。しかし参加の多数は赤字会社、会場はさながら松下電器糾弾の場と化していた。当初の2日間の予定も収拾がつかない激論のなかであっという間に過ぎ去ろとし、結論は出ぬまま、やむなくもう一日の延長を参加者にはかり、会議は3日間に延長することになった。

 

 

 

 

27・熱海会談3日目

当初2日間激しいやり取りがあったが、松下電器側の販売促進のための無理な押し込み販売や、他社の製品より立ち遅れ気味の開発、修理サービス等への不満など販売会社、代理店社長などの松下電器に対する苦情や批判は止どまることはなかった。両者とも長時間のやり取りの疲労は極限に達していた。

当時幸之助氏は69歳、すでに3年前娘婿である松下正治氏に社長職に譲り、自身は会長職として一線より退いた形になっていた。しかしこの会合には初日から参加していたのである。幸之助氏は販売会社社長達の口角泡を飛ばすばかりの攻撃的な発言に晒されながらも、考えつづけていた。このまま会議を終えてはいけない、何らかの結論を出さなくてはいけない。

幸之助氏は疲労を押しながらやおら壇上に立ちあがった。

 

「一昨日から、皆さん方は当社に対していろいろ苦情を言い立ててこられました。当社側も当社の立場からいろいろ申し上げました。今日集まってこられた会社もすべてが赤字経営会社ではなく30社ほどの会社は十分利益をあげられているようでした。ということは皆さん方の方にも問題があったことを理解していただきたいと思います。松下電器が申し上げている理屈もそんなに当を得ていない発言ではないと思うのです・・・」幸之助氏の発言が途切れた。

「私は皆さんの顔を見ながら今30年ほど前の昔をふと思い出しました。当時私どもの作った電球を皆さん方の店においてもらうように必死に日参してお願いして回りました。まだ名の売れてない当社の電球をこころよく店先に置いて頂いたのが、現在の皆さん方でした・・・」

 

「いまこうして松下電器があるのも、皆さんのお力であり、皆さんのおかげでした。そういうことを考えるにつけ、こういう事態になったからといって、皆さんに文句を言う筋合いはないと思うのです。あの時の苦しかった時代を皆さまの温かい励ましがあったからこそ今の松下電器があるのを忘れていました。私どもが悪かった・・・」

 

松下氏は話しているうちに30年前の苦しかった時代が走馬灯のように頭を駆け巡ったのだろう。万感胸によぎったのか、松下氏は話の途中涙が頬を伝い、絶句した。

「これからは心を入れ替え出直したいと思います・・・・そのことをお約束します・・」とめどなく溢れる涙とともに振り絞るような声で会場の参加者に詫びた。

苦情の発言でどよめいていた会場は一瞬水を打ったように静まり返った。やがて会場を埋め尽くした代表達の間に感動涙が波のように広がっていった。参加者の半数以上がハンカチを取り出し、眼鏡をとり目頭を拭くものさえあった。彼らも当時の頃を思い出したのだろう。

場の雰囲気は幸之助氏の発言前とは明らかに違っていた。

涙をぬぐいながら発言する代表者の姿もあった。「我々も悪かった。これからは我々も心を入れ替えよう。一緒に頑張りましょう」そういった発言が相次いだ。松下電器と販売会社、代理店がひとつになった瞬間であった。

 

その後、幸之助氏は営業本部長代行として復帰販売第一線に立ち、数々の再建策を講じて、販売改革を行い不振であった業績を見事に立ち直らせたのであった。

 

 

28・松下氏の失敗

幸之助氏は自身の失敗についてこのように語っている。

「私は人生において一度も失敗したことがない」こう断言している。

これを聞いた人はあっけにとられる。まるで「俺はパチンコで負けたことがない」とうそぶく給料日前にスッテンテンの独身サラリーマンの言を思い浮かべるからだ。しかし次に続く言葉を聞くと納得する。

「人生において、思わぬトラブルや読み違いで予想していた結果とは違うことが起きる。これを失敗というのなら、私は数え切れないほどに経験してきた。しかしそうした事態を奇禍とし努力して乗り越え成功に導いてきた。そういう意味で私は失敗したことがない」

 

幸之助氏は、父親が米相場に失敗し家が傾き、わずか9歳で大阪の商家に丁稚奉公に出され、20歳の頃には肺炎を患いました。父母や兄弟が次々に亡くなり26歳の頃は頼るべき親戚もなくまさに天涯孤独の身の上となったと言います。お金も学問もなく、しかも身体は虚弱。そうした状況で如何に実業に成功したのか?しかも単なる成功ではなく、世界的な企業に成長させた原動力。それはいわゆるプラス思考。見方を変え、考え方を変え、人の話に真剣に耳を傾け、世の中では一見マイナスと考えられることをプラスに変えていったその思考。「失敗は成功の基」このことわざは誰もが知ることわざですが、これを実践したのが、幸之助氏と言えるのではないでしょうか。